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「自己決定」と「パターナリズム」について 

樋澤 吉彦​

1.はじめに 
 皆さんこんにちは.私は新潟青陵大学助手の樋澤と申します.大学では福祉心理学科に属しており,主に学生の社会福祉実習指導などを担当しております. 
 今回,この「にいがたIL情報」に原稿を掲載させて頂くことになり大変光栄に思っております.何をテーマにしようかと迷ったのですが(というより話題のひきだしが少ない),今年の5月24日,県立新潟女子短期大学で開催された,「第3回にいがた自立生活研究会シンポジウム:障害学は何を主張するのか」で報告させて頂いたテーマについて,その要旨を述べさせて頂きたいと思います. 
2.「自己決定」と「パターナリズム」の一般的な捉えられ方と私の違和感 
 社会福祉において「自己決定」という考え方が重要な価値概念のひとつであるということは疑う余地のないことであると私は思います.それに対して「パターナリズム」という言葉,これは「自己決定」に比べるとあまり一般的でない言葉だと思いますが,この言葉に対してはおそらく否定的な印象をお持ちになる方が多いかと思います.「パターナリズム」とは,例えば「国家」や「専門家」と言われる人たちが,これまた例えば福祉サービス利用者(被援助者)に対して,その利用者がある時行おうとしている行為が,他者に「危害」を加えたり「不快」にさせているわけではないにも関わらず,「アンタ(被援助者)のためだから」という理由で当の本人の行為を「制限」したり,あるいは本人の「代わり」に本人の将来につながることを「決定」することを意味します. 
 この2つの言葉がこのように捉えられるようになった背景には,いま我々が生きるこの社会の仕組みの歴史があるわけですが,それを述べるには紙幅がありませんし,私にはまだその能力がありません.この歴史については私自身しっかり勉強しなければならないのですが,ともかく,この「自己決定」と「パターナリズム」は,単純に比較すれば相反する言葉・概念であり,そこに親和性を見つけることは難しい気がします.しかし,私はこのような捉え方に少し前から違和感を持つようになりました.私に違和感を与えるようになった直接の原因は,私も加入している「日本精神保健福祉士協会」という精神保健福祉領域のソーシャルワーカーの職域団体があるのですが,この協会の「倫理綱領」に利用者の自己決定を「制限」する条項を盛り込むかどうかについて交わされた議論です.「自殺しようとしている精神障害者の『自己決定』をそのまま認めるわけにはいかない.だから場合によっては自己決定の『制限』は必要なことなのだ・・・」.「いや,『自己決定』は、侵すことのできない絶対的な原則である」.そりゃぁ,たしかに,そう言われればそうだけど,しかし例えば,自殺する「自己決定」と,自立生活する「自己決定」は同じなのだろうか?ワーカーとして仕事をしていく際の「拠り所」でもある「倫理綱領」に、そう簡単に自己決定の「制限」を盛り込んでも良いのだろうか?だからと言って「自己決定」であれば全て(例えば自殺する「自己決定」)認めなければいけないのか?このような違和感から,私は、本来の自己決定を可能にするには,決定する個人が他人に迷惑をかけていなくても何らかの「介入」が必要なのではないのだろうか,そしてその「介入」は「自己決定」と正反対に位置付けられている「パターナリズム」と親和性があるのではないか,少し強引ではあるのですが,そのように考えはじめたのです.そこで「パターナリズム」というものについて,いろいろと調べてみました(現在も続行中).そのなかで次のようないくつかのことが分かりました.すなわち,「パターナリズム」の定義は明確には定まっていないこと,それにもかかわらず,特に個人の「自由」を強く主張する考え方をもつ人たちからは絶対的な「悪」とされていること,「パターナリズム」という考え方そのものに「価値」は含まれず,その良し悪しの基準は定義を定めてからでないと言えないということ、などです. 
3.正当化できる「パターナリズム」の基準は何か? 
 もうそろそろこの文章を終わらせなくてはならないのですが,ともかく私は「正当化要件が備わった『パターナリズム』は,決して否定されるものではなく,本来の意味での『自己決定』を支えるための不可欠の原理である」という仮説をたててみました.この仮説の実証には,3つの大作業をする必要があります.1つ目は,パターナリズムの「正当化要件」をはっきりさせること.これをしなければ何もはじまりません.2つ目は,「本来の意味での『自己決定』」の定義を示すこと.これも大作業です.そして3つ目は,当然のことながら,「パターナリズム」の定義を可能な限り明確に示すこと.私はいまこの難儀な作業に取りかかろうと思っております.特に1つ目の作業に関して,私は,被介入者が,何らかの理由で明らかに正常な判断ができない状態にあり,将来の利益や福祉を減少させるような行為を自分自身に行おうとしている場合に,その行為を何らかの方法で制限する行為は,少なくとも正当化できるパターナリズムと言えるのではないかと思っています.これについてはさらに調べて検証していきたいと思っております. 
4.おわりに 
 最後に,5月24日のシンポジウムの資料にも記しましたが,私は「介入」ということについて考えることは「自己決定」の捉え直しになるのではないかと考えています.また,いま社会福祉の世界で盛んに「理念」として謳われている言葉,「自己決定」もそうですし,「ノーマライゼーション」,「QOL」,「インフォームド・コンセント」・・・いろいろありますが,これらの言葉の背景に同居している思想の吟味,ということもしっかりやっていきたいと考えております. 

研究業績

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