社会福祉学(論)の立場から自己決定とパターナリズムを考える:同意は介入の根拠たり得るか?
1.はじめに1:自己紹介とこれまで
(略)
2)これまで
・社会福祉援助技術(ソーシャルワーク)における,いわゆる「援助関係」について興味を持つ.特に独自の援助関係論を展開した坪上宏氏(故人.国立精研→日本福祉大→精神障害社会復帰支援団体「やどかりの里」.専門は社会福祉方法論)の所論に強い興味を持つ(樋澤吉彦[2001]).
・坪上は,社会福祉学の世界で以前から続いていた/いる,いわゆる「(社会福祉援助)技術論」と「(社会福祉)政策論」の論争の「掛け橋」として,「歴史性」(ここでは,資本主義社会の生成・発達段階とそこに見る人間像の特性)を反映させたソーシャルワーク論を,「技術論」の立場から提起.具体的には真木悠介(見田宗介)の「二重の疎外」論と大塚久雄の「社会科学における人間類型」論を援用.
・同時に坪上は,社会福祉実践に「労働過程」の概念も援用.その理由として坪上は,労働過程の概念は,「人間に備わった能力」で自然に働きかけこれを変化させて自分に取り込み(「自分のもの」とし)自分自身を変化させる,という性質が援助関係における関係の本質を示唆しているから,という点を挙げる.
・坪上は,1一方的関係(緊急時等の個別状況に対応),2相互的関係(真木の「媒介からの疎外」(「貧困」等の物質的なこと)に対応),3循環的関係(真木の「媒介への疎外」(「物象化」→モノ・カネに規定された「人間の捉え直し」)に対応)という援助関係の3性質を提起.坪上は特に3循環的関係の重要性を説き,私も特に3を取りあげ論じていた.しかし・・・.
・「日本精神保健福祉士協会」倫理綱領改訂過程における,硬直的(と私は思っている)論議(後述)を末端の一会員として見守るなかで,坪上が,何回かあった精神保健福祉分野のソーシャルワーカー資格化議論に関連してその都度「倫理的に危険な商売への仲間入りの機運」と自戒しつつも,上述の「一方的関係」を決して否定していないことをふと思い出す.
・また,2003年7月「心身喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」(略称:心神喪失者医療観察法)成立と,精神保健福祉士に対する「精神保健参与員」(15条・36条)または「社会復帰調整官」(20条.平成16年4月1日には全国の保護観察所に約50名の調整官(法施行までは法務事務官)が誕生.但し精神保健福祉士だけが受験資格者ではない)としての役割の「義務」.「総論」反対の立場をとり,権利擁護システムの確立等,要望・提言はしていくと言いつつも,概ね本法に「乗る」方向の協会の姿勢に対する違和感→坪上は協会初代事務局長だった.
・ソーシャルワークだの,援助だの言うが,そもそもそれら「介入」の「根拠」は何か?なぜ「専門家」(私の関心は特に社会福祉分野における)は「支援」,「かかわり」という名のもとに「介入」あるいは「干渉」が可能なのか?→資格論,専門職性論等々….
2.はじめに2:本報告の目的と問題関心
・本報告の目的は,介入/制限の根拠原理の1つとされており,社会福祉や医療の現場においては一般的に忌避すべき概念とされている「パターナリズム」の様態,及び正当化原理の整理・検討を通して,被介入者のその都度の表面的・実体的同意は,介入の根拠としては不十分であることを提示すること.
・筆者の問題関心の基底には,医療及び社会福祉分野のなかでも特に被介入者の「特性」により必然的に介入者 による介入/制限の度合いが強いと考えられる精神医療及び精神保健福祉分野における介入/制限の様相,及び自己決定に関する動向がある .
・この問題関心のもと筆者は別稿において,「正当化要件が完備された限定つきパターナリズムは,自己決定/自己決定権を支えるための不可欠な原理かつ行為形態である」という仮説を提示(樋澤[2003],同[2005b]).またもう一つの別稿では,「自由」と「自律」とを概念として分けたうえで,支援/介入を行う他者のオーソリティーの吟味さえ怠らなければ,被介入者の「自由」を制限する可能性もある介入行為を行ったとしても,その行為は被介入者の「自律」を損なうことにはならず,寧ろ自律を支えるものとなるという後述のドゥオーキン,Gの所論を紹介したうえで,「強い」自己を前提とする自己?他者関係を解体しつつ,「弱い」自己を前提とする自己?他者関係を土台とした支援関係構築の必要性を提示(樋澤[2005a]).
3.パターナリズムについて
1)概説
「パターナリズムpaternalism」の語義は,fatherを意味するラテン語PATERに由来(本田[1989:149],江崎[1998:65]).パターナリズムは,一般的に「他人を侵害するのではないし,他人に著しい不快を与えるのでもない.公益にも関わらない.不道徳であるという理由でもない.干渉されるその人のためにという理由で干渉する」と説明される原理とされており(花岡[1997a:14]),法哲学をはじめ,生命倫理,医療,社会福祉等の分野において議論の対象となっている.邦訳としては,「温情主義」,「家父長的干渉」,「家父長主義」,「父権主義(的権力行使)」,「専断的権威主義」,「保護的温情主義」,「後見的干渉主義」(中村[1981:153],瀬戸山[1997:238],江崎[1998:65])等が与えられている.また通俗的には「余計なお世話」,「大きなお節介」等と表現されるように,今日の自由社会においては一般的に忌避されるべき概念として捉えられ,その邦訳が表している通り,「父」と「子」との関係のアナロジーで単一的に理解される傾向がある .しかし同時に法の世界においては,法的強制の正当化原理としても論じられている(瀬戸山[1997:238]).またパターナリズムは,干渉・介入の「説明原理」としての意味と,「干渉・介入」あるいは法的意味で用いれば「法律・立法」という2つの意味内容が混在しており(竹中[1998a:177‐179],同[1998b:77],瀬戸山[2001a:51‐52]),特に前者を「パターナリズム」,後者を「パターナリスティックな介入(行為)」というように区別して使用するのが一般的である.
2)パターナリズムの種類
1「純粋型(直接的)パターナリズム」と「非純粋型(間接的)パターナリズム」
「純粋型パターナリズム」:被介入者と保護(利益)を受ける人とが同じ.
「非純粋型パターナリズム」:被介入者と保護(利益)を受ける人とが別.
2「積極的パターナリズム」と「消極的パターナリズム」
「積極的パターナリズム」:被介入者の善や福祉を「増大」.
「消極的パターナリズム」:善や福祉の「減少を阻止」.
3「強いパターナリズム」と「弱いパターナリズム」
「強いパターナリズム」:被介入者の行為が責任能力を問えるもの(被介入者が任意の状態)であったとしても干渉・介入を行う場合
「弱いパターナリズム」:被介入者の行為が責任能力を問える状態ではないと推定できる場合(被介入者が任意の状態ではない)に干渉・介入を行う場合.
※人間の合理性,意志力,自己利益に関する行動には(外的圧力等の如何に関わらず)
共通して一定の限界があるという人間像を前提にした「行動心理学的法経済学」と
いう新潮流が,90年代後半から主に米国で展開されていることに留意 .
4「強制的パターナリズム」と「非強制的パターナリズム」
「強制的パターナリズム」:個人の「自由」への干渉・介入.
「非強制的パターナリズム」:個人の自由への干渉・介入を表面的には行わない場合.
5「身体的・物質的パターナリズム」と「精神的・道徳的パターナリズム」
「身体的・物質的パターナリズム」:害が身体的・物質的である場合.
「精神的・道徳的パターナリズム」:害が精神的・道徳的害である場合 .
6「能動的パターナリズム」と「受動的パターナリズム」
「能動的パターナリズム」:被介入者に何らかの行為を「行わせる」干渉・介入.
「受動的パターナリズム」:「止めさせる」ための干渉・介入.
7「形式的パターナリズム」と「実体的パターナリズム」
「形式的パターナリズム」:自己決定を可能とする「環境整備」としての干渉・介入.
「実体的パターナリズム」:自己決定の結果(実体)を本人自身のために否定する場合.
3)パターナリズムの正当化原理
1G.ドゥオーキンの合理的人間モデル
・ミル原理から「逆説的とも思われる解釈」(中村[1982a:43])によってパターナリズム概念を導き出したものがG.ドゥオーキン(Dworkin,G[1971]).
・ドゥオーキンによる定義:「もっぱら,その強制を受ける人の福祉,善,幸せ,必要なこと,利益,そして価値に関連することによって正当化される,当該個人の行為の自由への干渉」(Dworkin,G[1971:20]).中村は,このドゥオーキンのパターナリズム概念は以下の3つの要素から成り立っていると述べる(中村[1982b:140]).第1は介入行為が被介入者の利益のためになされるという点,第2は自由への干渉を含む点,そして第3は自由への干渉が第1の要素によって正当化されるという点.このようにドゥオーキンのパターナリズム論は,「自由への干渉」=「強制」を含むこと,及びその干渉・介入が「正当化」されることが前提となっている .
・ドゥオーキンの「合理的人間モデル」:「十分に合理的な人であれば,保護の形態として承認する」ということを基準に介入の正当化の可否を判断するモデル(Dworkin,G[1971]:28],中村[1982b:140]).
・課題:「合理的」の中身を普遍的な意味合いにおいて定義することの困難性.合理性については常に価値の競合が起こりうる.価値の競合が起きた場合,どちらの選択を合理的とするかの判断をどこまで「客観的」に行えるか.このように場合は結局のところ競合する価値同士を最大公約数的な何らかの価値基準に従って比較衡量したうえでその合理性の判断を行うことになる→「何らかの価値基準」をどう規定するか?
2J.クライニッヒの5つの正当化原理候補
・J.クライニッヒによる定義:「Xが,目的の一つとして,Yの善の確保のために,Yに干渉する範囲では,XはYに関してパターナリスティックに行為している」(パターナリズム研究会[1983:119]).
・クライニッヒによる5つの正当化原理候補:1「相互連結性に基づく議論」,2「将来の自己に基づく議論」,3「帰結主義者の議論」,4「同意を基礎とする議論」,5「人としての完全性(personal integrity)に基づく議論」.
1「相互連結性に基づく議論」
→個人の「社会性」に注目した原理.要は他者に対して惹起される(自己加害を含む)何らかの害や損失は生存の基盤であるコミュニティへの侵害であるため介入行為は正当化されるという考え方.
→「他者への義務の割り当てが確立しうる場合の文脈で意味をもつ限定された妥当性,有効性」をもつにすぎない.
2「将来の自己に基づく議論」
→当該個人の「将来」(の自由)のために「当面」の危険な行為(あるいはそれに準ずる行為)に対しての介入は正当化されるという原理(パターナリズム研究会[1987:137?138]).
→「当面」の「自由の侵害」が、「将来」の「自由の保障」にそのままつながるとは言い切れない.
3「帰結主義者の議論」
→「自由の道具性」としての議論と,「自由の増大」としての議論の2つの道筋を想定(パターナリズム研究会[1988a:121?124]).
→「自由の道具性」:自由を将来の利益の増大のための手段と捉えたうえで,必要ならば自由を制限できるとする議論.
→「自由の増大」:自由に最上の価値をおき,自由の促進あるいは保護という観点から自由を制限できるとする原理.
→課題:自由の計量化可能/不可能性,「誤る自由」について,ある行為が将来の当該個人の生活に必ずしも(悪)影響を与えるとはいえない,当該個人の個性の抑圧.
4「同意を基礎とする議論」
→クライニッヒはドゥオーキンの主張する同意モデルに近いものから,実体的な同意に近いものまで,1「事前の同意」,2「真意」,3「予期される同意・期待される同意」,4「事後的同意」,5「仮定的合理的同意」の5つのパターンを提示(パターナリズム研究会[1987:138‐143]).
→2と3はほとんど同じではないか.そのうえで次のパーソナル・インテグリティモデルで説明可能ではないか.4は「洗脳」や同意までの過程における情報操作等々危険が大きい.5はドゥオーキンのモデルと同様の課題がある.候補としては1.
5「パーソナル・インテグリティ(人としての完全性)に基づく議論」
→クライニッヒはパーソナル・インテグリティがパターナリズムの正当化根拠となる理由について,「人は(「任意」の状態であっても ?筆者注)未発達・未調整な能力の束」であり,「不注意,軽率,近視眼的思考などによって,その人の能力の完全な発達が妨げられ」,「人としての完全性を阻害し,思うようなライフ・プランの形成を妨げる」場合があると述べ(パターナリズム研究会[1988a:124]),当該個人のある行為が,「恒久不変の,中心的な企図(project)」を危険にさらす場合,あるいは「その人の決して高くないランクの欲求を反映しているような場合」に行う「善意の介入」は,当該個人のパーソナル・インテグリティを侵害せず,同時にパーソナル・インテグリティを保護することになるとする.この主張は必然的に「強いパターナリズム」を正当化することになる.
→換言すれば,クライニッヒは当該個人のパーソナル・インテグリティを反映していない選択に対しての介入は正当化されると主張.
3中村直美の被介入者の真の意思モデル
・中村は,「ある者(S)が,他者(A)に対して何らかの侵害を惹起する場合でなくても,S自身のためになるという理由から,個人または団体(I)―例えば国家―がSに対して何らかの介入行為を行うことができるか.できるとすればいかなる条件のもとでか」(中村[1982a:47],同[2001:105‐106])という定式を設定したうえで,1自由最大化モデル,2任意性モデル,3被介入者の将来の同意モデル,4合理的人間の同意モデル,5阻害されていなければ有すべき意思モデル,という5つの正当化原理候補とその難点を提示(中村[1982a:50‐55]).
・中村は、1)真の意志の把握の困難さ,2)阻害されていない状況下の個人の不合理な選択,3)本当に阻害されているのかどうかの判断の困難さ,という3つの難点があるとしながらも,5「現に阻害されている被介入者の意思・決定が仮に阻害されていないとすれば被介入者が有したはずの意思に当該介入が適う場合には正当化される」というモデルを最も妥当な原理とする.
4.考察:同意は介入の根拠足り得るか?
1)考察
・これまでの検討をふまえると,当該個人のその都度の表面的・実体的同意は介入の正当化原理としては不十分,あるいはあまり意味がない,と思う.パターナリズムは原則的に「強制的」なものであり,「強制的/非強制的パターナリズム」という分類は矛盾を内在するのではないか?
・例えばドゥオーキンが提示した「(仮定的・推定的)合理的人間モデル」は,上述した同意モデルと比較すると,パターナリズムとの親和性は相対的に高いと言える。しかしクライニッヒが仮定的合理的同意の箇所で,また中村が合理的人間の同意モデルの箇所で指摘しているように,このモデルには「合理性」を判断する基準をどのように設定するのかという難問が横たわる.合理的人間モデルは,当該個人の(行為の)状況/状態が相対的に緊急性の高い場合には,パターナリスティックな介入の暫定的な正当化原理として支持されうると思われるが,緊急性は低くとも持続的な支援/介入が必要と思われる当該個人 ―筆者はここでいわゆる社会福祉的支援(ソーシャルワーク)を想定している― を想定した場合,その社会の支配的イデオロギーや多数が共有する価値観を反映させてしまう危険性がある.
・パターナリズム正当化原理として最も妥当性の高いものは,クライニッヒの言う「パーソナル・インテグリティモデル」,あるいは中村の言う「現に阻害されている被介入者の意思・決定が仮に阻害されていないとすれば被介入者が有したはずの意思」モデルということになると思う.
2)暫定的結論:2つのパターン
1当該個人の状況/状態が生命の保全のための緊急性の高い場合:この場合であっても,可能な限り当該個人の意思反映モデルに基いた介入が行われるべきであるが,やむを得ない場合には合理的人間モデルを正当化原理とした介入が行われる.
2当該個人の状況/状態が生命保全のための緊急性は低いものの,持続的な支援を必要とするような場合:この場合は基本的には当該個人の意思反映モデルを正当化原理とした介入が行われることになる.
(注)
1花岡は干渉する者・される者ともにその対象は「個人」に限られるものではないと指摘している(花岡明正[1997:15]).また中村は介入者が「何者」であるか(個人か,国家か)がパターナリズムの正当化を検討する際に重要であると述べている(中村直美[1981:166]).本論文では筆者の問題関心に沿い,介入者については「個人」,「集団」,「国家」等個人に限定せずその範囲を広くとるが,被介入者については原則として「個人」を想定して論を展開していく.
2 精神保健福祉分野における社会福祉専門職団体である「日本精神保健福祉士協会」(以下,PSW協会)は,2003(H.15)年に開催された第39回総会において改訂倫理綱領案を提出し承認された.このPSW協会の倫理綱領改訂についてはいくつかの論点が存在したが,その1つであるクライエントの自己決定に関わる部分をめぐっては次のような議論が交わされた.2000年(H.12)の第36回総会で提案された1次案では,「(前略)その決定がクライエント自身や他者に重大な危険をもたらすと予見できる場合は,自己決定権を制限する場合がある(後略)」という文言が盛り込まれ,倫理綱領にクライエントの行動制限を盛り込むことの是非についての議論が展開された.2001年(H.13)の第37回総会で提案された2次案では,全体を「倫理原則」と「倫理基準」とに分けたうえで,「倫理原則」において「(前略)クライエントの自己決定を最大限に尊重し,その自己実現に向けて援助する」と改訂された.また「倫理基準」において自己決定を尊重した業務遂行時の具体的指針が明記された.しかし2次案においても「最大限」という語を用いてクライエントの自己決定権に制限を加えたことについての議論が展開された.2002年(H.14)の第38回総会で提案された3次案では,2次案で議論となっていた「最大限」の語が削除された形で提案だけがなされ,上述の通り承認された.その後,PSW協会,日本ソーシャルワーカー協会、日本医療社会事業協会、日本社会福祉士会の専門職4団体による「ソーシャルワーカーの倫理綱領」策定作業が進められており,2005年に採択される見込みとなっている(2005(H17)年3月現在).
3しかし花岡は父親や母親の役割・地位の変化に直面する今日ではパターナリズムを父と子との関係を原型としてのみ理解することは妥当ではないし,比喩としても成立困難であるとしている(花岡[1985:150]).
4主に中村直美[1982a]、パターナリズム研究会[1983]、福田雅章[1990]を参考にさせて頂いた.
5このことについて瀬戸山晃一[2001a],同[2001b].
6「モラリスティック・パターナリズム」と「モラリズム」の違いについて中村[1998].
7ドゥオーキンはその後の論文で,「自由への干渉」ということがパターナリズム概念の範囲を限定しすぎているという意見に対して,パターナリズムは強制に限られないということについて述べている(Dworkin,G[1983],花岡[1985:150]).
(文献)
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福田雅章[1990]「刑事法における強制の根拠としてのパターナリズム:ミルの『自由原理』に内在するパターナリズム」『一橋論叢』、103(1):1‐19.
花岡明正[1985]「正当性とパターナリズムについて:最近のパターナリズム論に触発されて」,『國學院法研論叢』,13:149‐157.
――――[1997]「パターナリズムとは何か」,澤登俊雄編『現代社会とパターナリズム』,ゆみる出版:11?50.
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