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※「1.諸言」のみ掲載。校正前のもの。引用等は『現代思想』(特集「精神医療のリアル」)42(8)をご購入のうえ当該論文をご活用ください。

関連物1(日本社会福祉学会第61回秋季大会口頭発表資料)→
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関連リンク→arsvi.com=生きて存るを学ぶより)


治療/支援の暴力性の自覚、及び暴力性を内包した治療/支践の是認について―吉田おさみの狂気論を通して―

 

樋澤 吉彦

1 緒言
 本稿は、専門家により「精神病」者と規定された者に対する「なおす」ための種々の方法・技術とそれを司る専門家の根底に潜む健常者性を顕在化させたうえで、社会によって「病」化された「狂気」を逆に貫徹することを志向した「吉田おさみ」(1931年-1984年)の狂気論の検討を通して、「治療」や「支援」に必然的に内包する暴力性の顕在化と専門家がそれを自覚し甘受することの契機とすることを目的としている。換言すれば専門的治療/支援はその行為様態にかかわらずすべて「暴力」であり、支援を行う専門家は自らの種々のかかわりが暴力の行使であることを開き直ることなく自覚しながら暴力として支援実践を行う必要があるということについて、吉田狂気論の検討を通して述べることが本稿の主旨である。付言すれば本稿はこの目的を超えての提言やモデル構築を行おうとするものではない。
  「暴力」という語は規範を逸脱した無法で乱暴な力(の行使)という意味合いを持つものであり、治療/支援の行為様態をそれに同定させることには疑義があるかもしれない。たとえば筆者の専攻分野であるソーシャルワークについては、日本におけるソーシャルワーク四団体共通の「ソーシャルワーカーの倫理綱領」において「価値と原則」の一つとして「差別、貧困、抑圧、排除、暴力、環境破壊などの無い、自由、平等、共生に基づく社会正義の実現をめざす」とした「社会正義」を掲げており、理念として明確に「暴力」を否定している。この価値を土台として日々、無数の個別具体的な支援実践が行われている。本稿はそれらの実践一つひとつを取り上げてそれの暴力的性質の是非の検証を行うといったものではない。本稿は吉田狂気論の検討を通して、(1)支援の専門家には状況に応じて力を行使する実体的権能が備わっており、(2)専門家は被支援者の同意如何にかかわらず状況に応じてその力を合法的に行使する役割を持っており、(3)それ故に専門家-被支援者関係は変更不可能な絶対的な非対称性のもとにある、という三点においてすべての治療/支援実践には必然的に暴力性が内包されており、それなくして支援は成立し得ないという意味で「暴力」の語を用いている。
  吉田論考は難解ではあるものの狂気についての論旨は明快である。吉田は自身の病者体験をふまえて、この社会は狂気をどのように規定しているのか、また専門家による治療/支援は病者と規定された者にとってどのような意味合いを持ち、本来それは如何にあるべきかを問うている。吉田のたたかいは狂気を病へと巧みに転換する健常者社会を完膚無きまでに打ち砕くものであり、安全地帯に身を置く「観客」としてみるかぎりにおいて一種の爽快感さえ感じられる。
 しかし筆者を含めて「する」側としての専門家は安全地帯からながめているわけにはいかない。後述の通り吉田は自身の論考の多くを「日本臨床心理学会」(以下、学会と略す)が発行する学会誌において発表している。そこでの吉田の投げかけに対して専門家は、ときにたじろぎ、ときに感情的とも思える反応を返している。それは学会に所属する臨床心理技術者が長年にわたるきびしい議論と自己反省を経て到達した、病者と規定された者に歩み寄り、対等な立場を志向し、信頼関係をもとにかかわるという行為様式の奥底に覆い隠されていた「する」側の健常者性とそれに起因する関係の非対称性を、「される」側の吉田によって根こそぎえぐり出されたことによる反射的な拒否反応ともいえる。
 先に吉田による狂気論の概要を簡潔に述べておきたい。
 吉田は「精神病」を狂気と位置づけ、狂気であること自体がすでに反差別運動であるとする。それは決して精神病者であることによる社会からの排除/迫害や治療/支援に対抗する反差別/障害者解放運動の産物としてではない。
 吉田は以上のように狂気を位置づけたうえで狂気と社会との関係を二段階に分ける。第一に先述の通り狂気を病と捉える健常者社会に対する対抗原理としての狂気が所与として存在する。そして第二にその狂気の様態 ―健常者社会にとっては精神疾患の種々の症状― を「なおす」権力構造に対する闘争という段階が第一段階を土台として成り立つ。吉田は、「反精神医学」を標ぼうする医師や「対等な関係」にもとづく治療や支援を志向した「良心的」専門家は結局のところ第二段階においてのみ親和的であり、狂気そのものについては専門家の側が「なおす」べき「病」と前提している時点で病者を否定する社会となんら変わらないとして彼らを断罪する。吉田のいう「なおる」様態とは専門家の志向する「寛解/改善/社会復帰」とは異なり「狂気の貫徹」なのである。すなわち既存の精神医学を土台とした治療的行為をやめることこそが吉田のいう「治療」の第一歩になる。吉田の提示する処方箋は専門家をおおいに困惑させることとなる。
 しかし吉田は本人主体が実体的に貫かれているかぎりにおいて治療を否定していない。ここでいう本人主体とは理念的な文言ではなく、まさに字義通り自身が治療を望んだ場合のみに限定されるという意味である。また治療の反-否定は苦しみを伴う「病」としての精神疾患の存在を吉田自身、認めているということにもなる。「病」は時に苦しいし、辛いのだ。吉田は一方で狂気を社会に対する反逆の一形態として位置づけながら、他方で狂気の本源である「精神病」を病と同定して狂気を減退させる治療/支援を希求せざるを得ないという如何ともし難い不条理と対峙する。吉田論考をみるかぎり、この不条理からは正気の社会に対する怒りや狂気の称揚などは微塵も感じられない。そこに存するのは失望、諦念、そして「する」側に種々「される」ことに対する「恐怖」である。この不条理は「する」側による治療/支援言説に乱舞する種々の修飾語に潜む欺瞞の徹底的な暴露に接続する。
 本稿における「治療」と「支援」という言葉の使い方について付記しておく。吉田論考では厳密に分けられている場合もあれば、一緒くたに論ぜられているものもある。筆者は前述の通り福祉的支援の専門技法であるソーシャルワークを主専攻としているが、本稿では吉田狂気論における狂気と正気の関係性に基づき、狂気を否定するにしろ一定程度認めるにしろ、正気の世界を基軸として相手を変容させることを志向しているという点において治療も支援も基本的には同様の行為であると考え、表記を厳密に分けてはいない。

研究業績

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